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小田急と江ノ電の記録鉄のブログ

ようこそお越しくださいました。記事内の文章や画像の転載、転用は固くお断りいたします。

国鉄高速軌道検測車借り入れによる軌道検測が行われた件(2)

1985年6月30日、尾久客車区所属のマヤ34-2008はEF65-1112に引かれて小田原にやってきました。
小田原の到着は13:15で入れ替えが開始されました。
受け取り側の小田急はというと、海老名を5:45に出庫したデキ(ED1031)が小田原に7:14に到着して待機、デキ+マヤで小田原を14:20出発し、海老名に16:17に到着し62番線に収容されました。

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到着後に入れ替えを始めたところです。

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一旦、静岡方に動いてから、バックで小田急のデキまでマヤを移動したようです。

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35年前だから許された撮影の状況かなと思います。
また、次回に続きます。

国鉄高速軌道検測車借り入れによる軌道検測が行われた件(1)

昭和60年当時、小田急では軌道状態の検測をスイス・マチサ社製の軌道検測車(PV-6)により実施していましたが、検測速度が30km/hということで、列車が走行時の動的な軌道状態の検測が出来ませんでした。
そこで、動的な検測を行うために国鉄の軌道検測車、マヤ34-2008を借用して1985年7月1日から3日まで試験を行ったのです。

これから数回、この試験について知っていることをお伝えしようと思います。35年前の話になります。

19850630(日)

借入入線当日は試験開始の前日で1985年6月30日(日)でした。この時はまだ小田原駅で受け取りを行っていました。
雨が結構降っていましたが、沢山の小田急ファンが来ていました。

東急車輛製造に行った元小田急1301

先日の海老名の1303でちょっとご紹介した東急車輌製造に行って牽引車になった元小田急1301ですが、某団体の工場見学会で撮影をさせて頂いていました。
以前にも書いたかもしれませんが、見学途中でこれを見つけた私は、もうどうにも我慢が出来ず案内担当の方に頭を下げてお願いをしてしまいました。時間にしたら1分くらいだったと思います。小田急ファンであることやこの1300形に思い入れがあることをお話して許可を頂いたわけです。今ならば決してOKが出るはずのないことかと思いますが、既に車両自体がこの世から消えていることから再掲載致します。

この見学会でこれを見てびっくりしたのは、まず塗装が前面のゼブラはあるものの、小田急時代の茶色になっていたことでした。廃車時のローズピンクのままでも良いのに何故この塗装になったのかは不明ですが、昔の色に戻してみたいなんてことを思った方が居たのかもしれません。
更にパンタが増設されて2個になっていますから重厚な感じにもなりました。2個パンタになっているのを認識したのは、これをネットで調べていて模型化された方の記事を見てでして、情けないことについ最近です(^_^;)。

NSE車の展望席を撮ったもの。ロマギャル?が写っております。

NSEとすれ違うSE車。これしか我が家にはSE車画像はありません。

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撮影時点で既に使用を止めているような留置のされ方でしたので、この後暫くして解体されたのかもしれません。最後にこの車両を記録出来て幸運でした。

小田急1406のお話、これにて最終回

小田急1406は1968年(昭和43年)に廃車になり、他のHB車の多くが地方私鉄に譲渡された中で唯一解体されずに小田急に残りました。

このブログでご紹介の通り、暫くは経堂の教習所で教材として活用されて、その後1987年(昭和62年)海老名に移動しました。
下の画像の撮影は1989年3月12日です。
そして今回ご紹介の画像のように1303と並んで留置されていました。この時点では保存して活用する予定があったのかもしれません。そして残念なことに1303と同じく1991年に解体されてしまいました。この画像撮影から2年後のことです。

この1406は資料によると1代目が1929年製の小田原急行モハ201(206)だそうで、1946年に経堂車庫にてクハ1300形(1310)と共に焼失し、その後色々あって(結構複雑なので説明なし)クハ1450形(1466)が改番されて1406になったそうです。

海老名に来てからは経堂で新宿方を向いていた運転室側が小田原方になり、元々の向きは不明ですが、小田急で言う海山の位置が反対になりました。海老名での海側は経堂の山側で結局そちら側の状態は1303に隠されて見ることが出来ませんでした。

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方向幕は切れてしまっています。前面の雨樋など劣化が激しいので保存となるとかなり手を加えないとダメだったかもしれません。

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側面の車紋が残っているのは貴重でしたから解体されたのは残念でした。経堂で取り付けられた乗務員室扉への階段が撤去された跡が残っています。

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左側の乗降扉のガラスは割られてしまったのでしょうか。Hゴムが垂れ下がっています。

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乗務員室扉部分の撤去跡が良く分かるかと思います。そして外板内部の腐食も進んでいるようなので、この時点で既に保存は難しかったかもしれないです。

小田急1406の続きの前に、この1300形を紹介しないと・・・。

1406の最終回の前に、この1300形1303を紹介します。

小田急1300形は4両が在籍していて、その前身はそれぞれ結構複雑です。
私が1300形を見ることが多かったのは、昭和40年代前半の朝の江ノ島線でした。1200形や1400形の3両編成に1300形が1両付いてアルミサッシの窓と両開きの扉が目立っていました。そして新聞電車専用となって後に荷電、配送に変わっていき1984年に職を失いました。
4両の内、デニ1001、1302、1304は1984年以降に解体されましたが、1301は東急車輛製造の牽引車モニ105になり、2パンタ化されて塗装も茶色に前面ゼブラ塗装化されて、ちょっと昔の小田急時代を彷彿する姿になりました。1303は海老名検車区に持ち込まれて、以下の画像の通りに保存か?に見える形で放置されていました。
残念なことに、1991年に解体されてしまいました。

この下の画像は、1985年9月8日に撮影したものです。いつ頃此処の場所に移動されて、何の目的だったのか定かではありませんけど、明日アップする画像と併せて見ると保存の意思もあったのかなと思っています。

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昔の茶色の塗装に戻った1300形を見たかったです。

小田急1406のその後

昨日アップの7年後の姿になります。この画像は以前のYahooブログ時代にも掲載したものです。
1978年12月3日の撮影です。

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教習所前の風景は大きく変わりありません。

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方向幕は入れ替えられたようです。それから乗務員室扉に外から入るための階段が付きました。

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教習車のサボと社紋です。

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とても綺麗に整備された状態です。



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昨日の画像の1年後の経堂の小田急1406教習車

昨日、私が初めて見た経堂の小田急の教習所脇の1406をアップしましたが、それから1年後の画像になります。

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1971年6月11日の撮影ですが、方向幕が破れてしまいました。布製ですからフィルムよりも劣化が遅いかと思うのですけど、同じ位置で毎日日光を浴びているとダメなんでしょうか。

小田急の教習車1406って、元々こんな塗装でしたか??

かつて経堂検車区の脇にあった乗務員さんの養成所にあった1406。このブログでも何回か取り上げており、検索しても自分のブログに当たってしまうのですが、元々がこの塗装ではなかったのに何故この塗装にしたのか?それが残念なのです。

HB車が活躍していた時代の思い出は沢山あるのですが、如何せん子供でしたからカメラもなくて残っている有形なものは皆無です。そんな中で、この茶色いHB車が片隅運転台で、ポールで仕切られた乗務員室であったことなどの記憶は鮮明にあります。
そう、HB車は茶色いのです。なのに、なんでこんな塗装にしたのか?それが最初にこの教習車を経堂で1970年に見た時の印象でした。50年も前の話なんですよね。

No.3 152

50年前ですww。旧4000形も古い種別幕、五角形の方向幕など旧塗装時代のままだったのが分かります。3両編成です。

No.5 030

1406も五角形の古い方向幕が入っていますね。願わくばこれの茶色塗装を撮りたかったです。

この1406の変遷を次回から辿っていきたいと思います。

辻堂海浜交通公園の小田急2218の晩年

保存車両ということではないので、譲渡先でどの様になっても意見は出来ませんが、一小田急ファンとしては2218が可哀想だなと思ってしまう晩年の姿でした。
現在のNHE車2658も海風にさらされて、決して良い状態とは言えないと思いますが、伊勢原の消防学校のNHE車と共に長く今の姿を留めて欲しいと思います。
鉄道車両の保存やその維持というのは本当に難しく大変なことかと思います。全国でそのような活動をされている皆さんには敬意を評したいと思います。

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昨日、引退を1984年6月30日と書きましたが、この看板によるとその前の年になっています。確認したいところです。

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少し痛々しい姿になっています。

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方向幕と種別幕位置が塗りつぶされているのも残念なところです。

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設置の仕方は上等だと思います。

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後方の車両メーカーの銘板が外されていますね。盗まれたのでしょうか。

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何かコンセプトがあって描かれたものなのか?ちょっと分かりません。

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台車はこの通りでFS321からFS203に代わっています。確かFS321は伊予鉄道に譲渡されたのではないかなと思います。

ということで小田急2218についてはこれにて終了です。

1983年頃の小田急2218現役時代

今回は2218を取り上げていますが、2217と共に中型通勤車として唯一FS321という空気バネ台車を装着した車両でもありました。昭和40年代の半ばの小田急江ノ島線は、未だ木製枕木でしたので、沈み込む感じに加えて空気バネのフワフワ感を乗車出来ると満喫したものでした。

さて、辻堂の海浜交通公園には、1984年6月30日に廃車になったあと、1984年12月8日に搬送が行われ、12月19日に公開されたようです。
1994年10月に現在のNHE車2658に交代するまで展示されていたわけです。

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新宿方で2400形と組んだABFM6連で10両編成を組成した急行です。10両と言っても中型車であり、中間には運転室が沢山あるわけで、決して輸送力が抜群の10両とは思えませんでした。

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大井川鐵道に行くSSEを横目に足柄に停車中の2218です。

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後半は多摩線で活躍する姿も多く見られました。

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この2218の相方の2217はなかなか前に出る機会がなかったのですが、一度だけ多摩線で先頭になった2217を見ることが出来ました。

次回は辻堂の海浜交通公園で塗り替えられて、少し可哀想な姿になった晩年の2218をアップしたいと思います。
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