今回は、モハ27の運転室内を中心に画像をアップします。この撮影は、一般公開の時間帯に行ったものです。
モハ27運転室背面の天井付近には、ご覧のような機器が取り付けられていました。今ではこの様な造りは無いかと思います。
なんとも統一感の無いバラバラな感じの運転室機器。マスコンとブレーキ弁の高さはこんなに違って扱い易さではどうなんでしょう?
運転席と反対側です。押しSWが並んでいます。手ブレーキの形に古さを感じます。
助手席側の上部の無線関係機器らしきもの。
家に一つ欲しくなる渋いマスコン!
天井には冷房化されているものの、扇風機が並んでました。わざわざ扇風機を回してサービスしてくれる一幕も。見ていたら、旧小田急4000形の冷房改造後の天井を思い出しました。
この系列の車両の乗務員室扉は、新形式と反対に開くので、扉SWは前面窓側に配置されています。その関係で、非常停止紐(4枚目画像右上の赤いものです)も後方に付いてます。大井川鐡道の元南海車も同様ですので確認してみてください。あちらのは扉SWの取り付け位置やSWそのものも面白い造りになっています。
近鉄は乗務員室扉の上に扉開閉SWが付いていてこれも面白いです。
新浜松で11:00から13:20まで一般公開が行われました。
車両は西鹿島方にずれた状態で留置。理由は・・・。
理由は、こうなっていたからでした。
新旧が顔を合わせています。現在のダイヤでは朝方、月から金まで西鹿島6:48の上りから2往復が吊り掛け車両の4連で運行されており、それ以外の運用が無いことから2両でこの様に吊り掛け車が新浜松で留置されることは無いと思われます。
これは一般開放されたホームの側からの撮影です。
今日の運転時刻表です。下りの臨1列車は、西ヶ崎で交換と後続の退避を行うという珍しいことが行われました。イベントならではの珍事でした。
今日のHM(モハ27側)です。
今日のHM(クハ89)側です。
西鹿島の様子は次回とします。本日はこれまで。。。
今日は、遠鉄の吊り掛け駆動車両である27+89の勇退記念列車が走りました。午前は西鹿島から新浜松、午後はその反対で、午後の部の乗車に当選したので午後は新浜松から西鹿島まで、ゆったりと吊り掛け駆動の音を堪能することが出来ました。
遠州鉄道のイベントは、それ程派手さはないものの非常に温かみを感じる演出がされていて、関係者の皆さんの努力と参加者への気配りが今回も十分に感じられました。
無事にイベントが終了して良かったです。
遠州鉄道の皆さん、ありがとうございました。
午前は、乗車が無かったので積志という駅から新浜松方向に少し歩いた田んぼの脇から撮影しました。ざっとみて30~40人くらいがカメラを構えていたと思いますが、全くトラブルなしでした。
この列車には、本日お会いする予定でブログでお世話になってる宵闇様が乗車されているハズです。右端に撮影者軍団が見えます。
真横です。両開きがモハ27で昭和49年導入。右の片開きがクハ89で昭和38年導入だそうです。
この場所の通過音だけで素晴らしい吊り掛けサウンドが聴けました。
この後に続きます。
この時、電車で行ったと思うのですが、元小田急1906も撮っていました。
方向幕には『金谷』の文字が入っていました。新金谷駅ホームです。
1906の車内です。通常は牽引車なので乗車の扱いをしていないようでしたが、この時だけ乗ることが出来ました。これが大井川鉄道で1906に乗った最初で最後になってしまいました。
折り返しは急行の千頭行きなので、方向幕には『急行』の文字が出ました。どうせなら〇急運板で千頭にしてほしかったです。
元小田急1906と言っても、台車、モーターは別物でして、更に運転室の窓ガラスが車体と面一になっていたり、尾灯の位置変更(別物が付いてます)、方向幕箱の両脇の手すりの上部が切断されているなど、若干雰囲気が変わっていました。
この後に、この1906に会ったのは、新金谷の奥の方の先端にある廃車体置き場ででした。かなり長い期間放置してありましたので東海道線から見た方もいるかと思います。
先日からの久々に見つかったネガの中からです。今回は大井川鉄道になります。現在こそこの新金谷からそう遠くないところに住んで仕事してますけど、未だこの当時は〇〇〇でした。覚えたてのフィルム現像などやって失敗しているので、画像はこの有様です(トホホ)。
左側は元西武からの車両でしょうか。事務所で許可を得れば簡単に見学が出来た時代でした。
これは元名鉄車と思われますが、独特の番号が無くなってます。この位置には現在は入れません。
今は転車台が出来た辺りものんびりとしたムードが漂っています。
あかいし(元北陸鐡道くたに)を牽引していたモハ305は元小田急の1906と交代したばかりで留置中でした。
新金谷駅構内も今と違う雰囲気です。
詳細不明ですが、これも元西武車でしょうか?
この車両は、元名鉄と分かる番号が付いたままでした。
現在、元京阪の3000系車体も運用から外れてしまい、更に運行本数も激減となって寂しい状態の大井川鉄道ですが、何とか再生して元気になってほしいものです。
前述の601+602に鵠沼から乗車して極楽寺に向かうと車両交換になってしまいました。それで追っ掛けて極楽寺の車庫に行ったようです。
おでこのライトがとても良いです。この当時は、終端駅でサボをひっくり返していました。
601+602のためのような、何かの計測小屋があるみたいでした。
庫内では、603+604になる元89と90が玉電塗装のままで改造中でした。最後にこの色に戻してもらうのもやってほしかったと思いました。
続いて日曜日に見つかったネガから、大阪遠征の画像アップします。面白いので何回かに分けます。38年前です。
なお、天候が悪いのとカメラ撮影の何たるか全く理解せずに撮っているので画像のひどさはご勘弁ください。
確か、銀河50+α号で贅沢に大阪に到着して撮影を始めたのだと記憶してます。
「まつかぜ」と「日本海」ですね。なんでEL側撮っていないのだろうか。。。それにしても今もなお103系が健在とは凄いものです。今のうちに撮っておかないと新型に代わってしまいますね。
20系になった急行銀河です。貫禄ありますね。EF58って嫌って言うほど居たので撮影対象にしてませんでした。今になって考えれば勿体ない話です。
藤沢時代に仕事で失敗したのを挽回するために、大船からこれのA寝台上段に乗って大阪に荷物を届けに来たことがありました。今となっては貴重な乗車体験でした。
後部表示が真っ白なので、側面だけでもと撮ったんでしょう。もう少し引いて撮ればいいものを。。。
DD51牽引の福知山線への普通列車でしょうか?一度だけこの客車列車に乗りましたが、いい感じでした。特に音が良かったです。
というわけで、まだ続きます。江ノ電の続きが遠くに行ってしまいました(笑)。すみません。
江ノ電の続きの前に東急線を走ったリゾート21をご紹介します。これもネガが見つかったので。。。
渋谷と他の場所でも撮っていますが、人だらけでまともなのが無いのでこれだけにします(笑)。
桜木町幕が懐かしいです。そしてこの駅さえも無いんですよねぇ。
東横線の渋谷駅ですから人が途切れることは無かったです。
もう少し何か撮りようはなかったのかと思いますが、メトロ7000系が入った時も同じ写真撮ってますので、進歩ないです(爆)。
実際には調べてみると、東急線内を面白い行路で6/18から6/22まで走ったようです。どうやって時間を調べたのか分かりませんけど、今のようにネットも何もない時代ですから鉄道雑誌に載ったのでしょうかね?
これでも29年前になるんです。黄色い服のお子さんも30歳超えてますね。
年末から鉄関係の大掃除を継続していたら、見つからなかったネガが本日出てきました。その中にあった江ノ電601+602の登場時の姿をご覧ください。画像はハーフのボロカメで撮影したものなので酷いです。
旧鵠沼駅に進入する601+602です。現在は島式の駅に変貌してしまいましたが、相対式の風情のある駅でした。
602の運転台です。晩年のマスコンとは違う回転角度が大きなのが付いてます。この形は305+355にも付いていたように思います。
江の島にて交換停車中の601+602です。
因みに、登場は1970年で最後まで残った601+651(1988年602が651に改番)が1990年に引退してます。
元の車番は玉電の104~107で、世田谷線になって87~90に改番されて連結二人乗りに改造されず、余剰となって江ノ電に来たとのことです。
今頃になって疑問に思うのは、1372mmから1067mmへの改造を台車を交換して行ったのか、それとも何らかの改造を既存台車に施したのかです。その間に入った車両メーカーなども不明で、竜口寺で搬入したのならば、その際の搬送に使った台車は既に改造が施されていたのか、それとも仮台車だったのかなど45年も経ってから色々と考えてしまいました。
ご存知の方がいらしたらご教示ください。
603+604については、少し遅れて運用についてから1983年に廃車になっています。この編成は603+653にはなっていません。
お顔の変遷は1980年に前面窓のHゴム化、シールドビーム2灯化が行なわれ、1982年に右側窓のアルミサッシ化(開閉可能)が行われてます。
登場時の驚きは、何と言ってもこの塗装でした。バスと同じ色にするとか色々と話題になりました。晩年に一旦登場時の赤電に塗装が戻されたとのことになっていますが、登場時を知る私には別物に見えました。塗り分けも色そのものも違っていたからです。
105と110を使っての3連化は是非見たかったです。
続編があります。