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小田急と江ノ電の記録鉄のブログ

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2013.-1.12初鉄 東海道新幹線

未だ新年になって初鉄撮りを行っていなかったので、今週末はさてどうすべきかと思ってました。遠鉄の30系の廃車体でも撮りに行くかなんてことも考えてましたが、それだけじゃ面白くないので今日の夕方の新幹線を撮ることにしました。
なぜ夕方の新幹線なのか?理由はありませんが、なんとなく経堂工場さんの夕景撮影に触発されて真似てみたくなったので今日はその練習となったわけです。
 

 
日没が16:58とか?言ってましたのでその1時間ほど前から此処東海道線の愛野駅東側の陸橋に陣取りました。日中の気温が13度くらいあったので大丈夫かと思ったらこの陸橋上は遠州の空っ風が強く吹いて非常に寒かったです。参りました。向こうが愛野駅で浜松方となります。遠くに浜松のアクトタワーのシルエットも見えます。
 

 
沈む前の太陽入れたらこんなになりました。鉄塔が邪魔かなあ?
 

 
さて、この後の沈む太陽と新幹線のコラボレーションは可能なのか!あと少しです。
 

 
この瞬間に新幹線に来てほしいとちょっと場所も移動したのですが新幹線が来ない!そして太陽は沈んでしまいました。沈んでいく瞬間というのは非常に時間が短く感じられますね。
 

 
その後やってきた700系です。これにておしまいとしました。
 
寒かったですがなかなか面白い1時間でした。また今度挑戦しようという気になりましたのでお楽しみに??

常磐線DC急行 補遺

常磐線DC急行に詳しい方から説明メールを頂きましたので掲載致します。なるほどなあ・・・です。運用が乱れたらどうなってしまうのだろうかと心配になりますが、DCはどれでも繋がるので大丈夫だったのでしょうか?よくまあこのようなこと調べて記録されていたものだと感心してしまいます。○○さん、ありがとうございました。
 
《以下説明になります》
編成は上野より1号車から始まります。
1号車は急行奥久慈「常陸太田→上野(常陸太田→上菅谷間普通列車)」。2~5号車は急行奥久慈「磐城石川→上野」。6~12号車は急行ときわ「平→上野」。と言う各DC列車で上菅谷と水戸で合流してました。

常陸太田発は上菅谷までキハ58又はキハ28とDC1両の2両編成で、上菅谷で1両切り放します。磐城石川からの列車を連結後、水戸へ向かいます。

水戸で奥久慈は水郡線ホームの2番線に到着して、一端客扱いした後、お客を乗せたまま上野寄りに引き上げて、平からの急行ときわが到着してる常磐線上りホームに転線して連結後上野へ向かいます。

この列車の上野で折り返しは、1~8号車は急行ときわ「上野→水戸」。9~12号車は急行奥久慈「上野→郡山(常陸太子→郡山間普通列車)」と変化します。
上野を発ち水戸駅の水郡線2番線ホームに着きます。急行奥久慈を切り離し、1~8号車のときわ編成は上野よりに引き上げて、急行ときわ「水戸→上野」として待機。
先ほどの奥久慈編成とは違う編成の8~12号車の急行奥久慈「郡山→上野(郡山→常陸太子間普通列車)」が水郡線2番線ホームに到着して一端客扱します。客扱い終了後、お客を乗せたまま今度は勝田寄りに引き上げます。
奥久慈編成が客扱いしてる間に、上野寄りに引き上げてたときわ編成は常磐線上りホームに据え付けします。勝田寄りに引き上げてた奥久慈をときわ編成に連結した後上野へ向かいます。

上野で折り返しはまた変化して、1号車は急行奥久慈「上野→常陸太田(上菅谷→常陸太田間普通列車)」。2~5号車は急行奥久慈「上野→磐城石川(常陸太子→磐城石川間普通列車)」となります。
上野を発ち水戸駅の常磐線下りホームに着いたら、6~12号車のときわ編成は平へ向かいます。奥久慈は一端客扱いして終了後、上野寄りに引き上げて、スイッチバック状態で水郡線2番線ホームに据え付けします。
磐城石川行は、水戸を発ち上菅谷で1号車の常陸太田行を残し、磐城石川へ向かいます。常陸太田行は上菅谷で1台連結して2両編成になり常陸太田へ向かいます。
以上のような運用でした。

車両の配属は、ときわも奥久慈も「水ミト」こと、水戸鉄道管理局水戸機関区でした。

1973.-7.25の国鉄列車二題

正月は鉄を封印?していたので古いものをまた引っ張り出します。
 
先日アップした常磐線の急行DCを鴬谷で撮ったのがありました。これは昭和48年の春から夏の間の撮影と思われます。ネガ劣化が激しくて色合いがおかしいですがご勘弁ください。
 

 
このDC急行の件は年末にこれに詳しい方から更に詳細な運用を聞いたのですが、あまりに難しすぎて忘れてしまいました。ダイヤ乱れがあったら大変なことになるような運用でした。
 

 
このエメラルドグリーンの常磐線の車が1978.-7.25に関東鉄道に初めて行った際に撮ったものです。エメラルドグリーンというのが非常に珍しくて撮ったのだと思います。時々転入した車が京浜東北線などで3色で走ったりしている中に挟まっていましたが、この色があるということを最初は信じられませんでした。
 
これも既に40年前の写真になってしまいました。写っている車掌さんが30歳としても既にこの方は70歳か!年月が経つのは速いなあと思いました。

2013.-1.-5駅弁とSAでの食事

本日、早々と藤沢から帰宅しました。昼前に近くのスーパーで駅弁販売があると聞いてチラシを見たら、あの利久の牛タン丼駅弁が販売とあり早速購入しました。但し高かったので1個だけです。
 

 
このお弁当はひもを引いて弁当を温めるカラクリがあって若干湯気が出たりして周囲に匂いがまき散らされます。悪い匂いじゃありませんけど新幹線の中でコレをやるのは如何なものかと思ったりしました。ビール飲んでスルメとか崎陽軒のシュウマイ食べてればそんなこと忘れてしまっているのですが、周囲の皆さんは結構匂い感じますよね。他の方々への迷惑も考えて行動しましょう(自分に言ってます)。
 

 
温めが7~8分で終了してふたを開けると中身はこんな配置になっています。温めの機構がある関係で上げ底っぽくなっています。上に乗ってるのは牛タンにかけるタレです。
 

 
接写すると牛タンが好きな方ならば食べたいなあと思うのではないでしょうか?しかし、昨年仙台駅近くの利久であの肉厚な牛タン定食を食べてしまった私はとても物足りなさを感じてしまいました。あ--またあれ食べたい!
量的にはごはんも少なめで女性向かなと思いました。価格が1300円なので躊躇する人もいることでしょう。
 

 
そして、いきなり登場するのがこの地魚のミックスフライ定食880円なり、です(ちょっと、食べかけで失礼)。これは、東名下りの日本平SAの食堂で供されているもので、券売機で食券を購入したとたんにフライを揚げ始めて、おおよそ10分以内にはお呼びが掛かるものです。昨年、揚げたてを食べられるので美味しいなあと思ったため、今日も帰りに寄って食べました。からっと揚がっていて食べやすいです。私はお薦めします。
 
昨年の新東名開通時の一時期の戦略でやっているのかと思っていたのですが、昨年と同じ状態で出されて美味しかったので安心しました。
 
新東名と旧東名は良い意味で競っているんですね。利用者には嬉しいことです。他のメニューも今度挑戦してみましょう。
 
小田急&江ノ電の記録鉄のブログ???・・・・・えっ!  と言われないよう今後は鉄の話題に戻します(汗)。
 
☆利休⇒利久に訂正しました。

2013.-1.-4藤沢にプチ帰省

一般的な会社の冬休みも既に後半残すところ3日になりましたが、今日は新東名を使って藤沢にプチ帰省しました。新東名は午前出発だったので渋滞はありませんでした。そこで大井松田で降りて昨日の駅伝の復路を走って江の島まで行くことにしました。
江の島で遅い昼食に寄ったモスカフェはもの凄い混雑でした。道路も渋滞していました。
 

 
新東名のこの付近では富士山が真正面に見えます。最近は神奈川、東京に早朝到着行路が多いのでこんな風景があったとは知りませんでした。森掛川のSA駐車場にはPCが待機して本線を見てました。速度取締機がない新東名ですが走りやすいのでスピードの出しすぎには十分注意しましょう(自分に言ってます)。
 

 
清水を過ぎると富士山は進行方向左側になり、真横になる辺りでは風よけが邪魔して写真は撮りづらくなります。
 

 
夜には江の島の火星人のようなイルミが光っていました。今日は20:30には消えてしまっていました。
 
ということで明日には掛川に戻ります。・・・鉄はなしかぁ。。。
 

1978.-9.17の藤沢駅周辺

休み中に出掛けずに古いネガをスキャンしました。35年前の藤沢駅です。私も藤沢の住人でしたので移動の拠点は此処でした。こんな写真も撮っておくものですね。
それから、やたらと目立つアドバルーン、最近はあまり見かけなくなりました。そういえばちんどん屋さんというのも見なくなりましたね。それぞれ宣伝方法の一つだったのですが、昭和の遺産になったのかな?
 

 
現在のJR藤沢駅が作られている最中ですが、手前が旧の北口に出る階段です。北口の辻堂方向には高層建築がありません。
 

 
これは北口側から見た改築中の小田急藤沢駅です。東京寄りに南北共通の階段がありました。
 

 
JR(旧国鉄)の藤沢北口です。神奈中のなみなみ塗装のバス窓車がいます。神奈中と江ノ電のバス停はこの頃はずっと辻堂寄りにあって雨の日などは大変でした。
 

 
北口から南口方向を見てます。江ノ電デパート(現小田急デパート)や十字屋など懐かしいですね。この時点では2階部分の歩道橋が繋がっていなくて不便でした。夜になると小田急の改札を出たところに屋台が数台並んでましたね。
 
藤沢駅も随分変わりました。この写真の後で左側に志澤デパートが出来て西武デパートになって閉店解体されました。同じところから今昔をしたいのですけど、なかなか実現出来ません。

昭和45年頃の経堂検車区

12月初旬に用事があって経堂周辺を車で移動しました。その際にすっかり変わってしまった駅周辺を地上から?眺めたわけですが、かつて駅を降りて歩いた場所がどこなのか全く分からなくなっていました。基準とする物さえもが無くなってしまったので、さてさて此処って経堂?検車区どこにあったの?状態でした。
 

 
検車区に入って豪徳寺側に向けて、やや放射状に線路が配置されていました。2400、1800、4000、1800が留置されていますが、どれもが無くなってしまいました。43年も前ですからねぇ。
 

 
1800形というのは江ノ島線で2両で走っている時に乗った記憶があるのですが、運転室の後ろに椅子が無い電車として、更に食パンのような切妻のお顔が印象深かったので『乗りたい』の上位にいました。しかし、それほど運用はされていなかったようで何度もお目に掛かかるようになったのは元祖快速急行1800+4000の5両での夏季輸送でした。
 

 
先日、やじたか様のブログに帯なしでローズピンク塗装+荷物表示の荷電が掲載されていましたが、わたしもこれだけがありました。
 

 
本線側には洗浄線がありましてよく特急車が停まっていました。本線をまたいで海側にも留置線があったんですね。
 

 
本線向こうにSSEが停まっています。通過するのは非冷房のNHE車のようです。
 

 
昭和45年ですから新塗装化がある程度終わっている頃だったかと思います。しかし、種別幕や方向幕はまだ昔のままのようです。各停という種別幕の使用開始は近年になってからで当時は各停は無表示でした。
 
ということで経堂検車区の今昔をやろうにも比較対象が消えてしまってどうにもならないということが分かった次第です。若い世代の皆さんからすると40年以上前の話は???でしょうか。

2012.-1.-1

みなさま、あけましておめでとうございます。
今年も続けてこのブログ頑張っていきたいと思いますので宜しくお願い致します。
 
鉄ヲタのお正月の写真ってなかなか無いものです(笑)
 

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